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由来と歴史

地主神社は社殿修復⼯事のため、
閉⾨しています。
(工期約3年)

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地主物語

地主物語 冬 運慶と快慶
ライバルであり友でもあった二人の縁

本殿の狛犬
運慶が奉納したものと伝わる狛犬が今も地主神社を守っている

力強く神社を守る一対の像、狛犬(こまいぬ)

魔よけの力があるといわれ、古くから神社の鳥居脇や社殿の前などにおかれる一対の獅子(しし)、または犬をかたどった像を「狛犬(こまいぬ)」という。地主神社の本殿の前にも、厄や魔を寄せ付けないたくましさを感じる狛犬の姿がある。この狛犬は、鎌倉時代の天才仏師としてその名をはせた「運慶」が奉納したものと伝えられている。
運慶は、父・康慶やその弟子・快慶とともに今までにない新しい仏像の形を生み出した革新的な人物である。その力強い作風は当時の人々の心を大いに勇気づけたことであろう。女性的な平安文化から男性的な鎌倉文化への転換期に生まれた二人の天才、運慶と快慶の深い縁とその人生を辿る。

天平彫刻にも通じる男らしい作風を生み出した運慶

飛鳥時代より始まった日本の仏像制作は、奈良時代を経て、平安時代、仏師・定朝(じょうちょう)によってその様式が確立された。浅く平行して流れる衣文、浅い肉付けに穏やかな表情が特徴の優雅な仏像の様式は特に貴族に好まれ、以後の仏像彫刻にも深く影響した。その定朝の流派は「定朝様」と呼ばれ、のちに京都の院派・円派、そして奈良の慶派にわかれたが、次第に貴族との結びつきの深い京都仏師の力が強大化していった。
そんな中、奈良仏師は定朝よりさらに古い天平彫刻の研究を進めたが、その写実的で力強い作風は当時の貴族には受け入れられるものではなかった。奈良仏師の棟梁の子として生まれた運慶は幼い頃から奈良の寺院に伝わる天平の彫刻に触れ、無個性でマンネリ化を迎えつつあった定朝様に疑問を感じていたのだろう。運慶の作品は、終生を通して肉感的で躍動感のある男性的なものだった。

バランスのよいのびやかな作風が特徴 完璧主義の快慶

一方、同時代に一世を風靡したもうひとりの巨星・快慶。その作風は、運慶とはうって変わり、むしろ京都仏師の伝統に近い優美で美しいものだった。当時、仏師をめざす者はこぞって京へのぼったが、快慶は天平の仏像に強く惹かれていたことから奈良仏師の棟梁であった運慶の父康慶の弟子となった。快慶は細かな描写や切り金(細く切った金で衣服に文様をつける手法)を多用し、繊細で優美な像を創り出した。また、おだやかな人柄であったことから奈良仏師の中でも人望を集め、運慶とともに慶派の中心的役割を担っていくこととなった。

平氏滅亡後に訪れた奈良仏師のチャンス

1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅び源頼朝の東国政権が実現すると、今まで脚光を浴びていなかった奈良仏師にチャンスが訪れた。平氏につかなかったことで、源氏の実力者となる北条時政に招かれた運慶は、伊豆の願成就院の造仏の任を受けた。それまでとは全く違う写実的な運慶の作風は東国の武士たちに熱狂的に支持され、注文が殺到するようになった。また慶派は「玉眼」という手法(水晶を目の形に削り彩色して仏にはめ込んだもの)を取り入れており、その鋭く光る眼光はますますリアルで生気を感じるものであった。新しい時代にさしかかろうとする世の中で、力強く生き生きとした慶派の作風が武士たちの意気込みや気運にぴったり合っていたことがうかがえる。

二人の天才が挑む大きなプロジェクト そして別れ

鎌倉幕府の信頼を勝ち得た運慶は、奈良へ戻ると棟梁としてこれからの慶派を継ぐように父から告げられた。やがて平氏によって焼かれた東大寺の再建を任された慶派は、着々とその任務をこなしていたが、その総仕上げとして東大寺の門を守る金剛力士像が注文された。そこに与えられた製作期間はたったの三ヶ月余り。当初は無理だと思われたその大きなプロジェクトに、運慶と快慶は真っ向から挑んだ。十数人の仏師を集めて分業して製作し、それを最後に合体させる方法でわずか69日で完成させたのだ。その像こそが、互いに向き合い今も東大寺を堅く守っている「阿吽(あうん)の像」である。
その大業を成しえた背景には、運慶と快慶の厚い信頼関係が大きく関わっていたことであろう。その人柄を表すかのように力強い運慶と優美な快慶の作風は、不思議に調和して新しいバランスを生み出した。修行時代からともに学び、自分にないものを持つ互いの存在に刺激を受けながら時にはライバルとして成長した二人。
運慶が「阿」といえば快慶が「吽」と応える。二人の息がぴったりと合っている時に使われる「阿吽の呼吸」は、まさに運慶と快慶のことのように思われる。
また、金剛力士像の仁王と同じく一対で存在する狛犬にも阿吽の意味がある。東大寺再建の一年前に地主神社に奉納された狛犬には、運慶の快慶とともに取り組むこのプロジェクトに対する並々ならぬ意気込みがあったのかもしれない。
もし天才仏師二人が出会うことがなければ、今の仏教美術の形も変わっていたことであろう。そう思うとこの二人を引き合わせた縁とは、何とも不思議なものである。